縁 起

 

 

 

比叡山は横川地域の鶏足院(けいそくいん)末寺であったが、現在は天台宗延暦寺に属している。

 

当寺の詳細は明らかではないが、出雲国千土浦の浜辺より、一大龍王が六道能化大悲地蔵尊と負い奉り能化菩薩に告げ、一宇を建立したといわれている。

 

人皇五十六代清和天皇 貞観年中(西暦859年~879年)に王子の玉体平癒の祈願の勅を承り、七日七夜祈念奉願し、ご利顕ありて全快し給う。(創建は貞観3年 西暦861年とされる)

王子鳳輦をまげて当山に臨幸せられ、南無大慈大悲六道救世地蔵大権現の勅語を授けられました。

公田十六町歩、御供料寄進賜り、これを機縁に菊の御紋章も使用するに至った。

 

時の座主、長慶上人(大日本仏家人名辞書)の徳を慕われ、山陰道巡錫の砌、慈覚大師円仁、初めて当山にご滞在なられ、地蔵尊像をご制作(現存・体内仏に観世音菩薩像あり)また、ご正筆「巖山寺一寺額」(現存)をご自作なされた。

 

その後、龍岳山山腹を中心に、峯山寺・常楽寺・大谷坊・本覚寺・大乗坊・宝城院・宝葉院・宅宝院・明王院・龍行院・巖山寺・地蔵院、など十二ヶ坊の寺院が立ち並び灌頂の道場として隆盛を極めた。

 

天正九年(西暦1581年)六月、太閤秀吉が因州方面遠征の折、当地を通過の際、寺院に火を放ち、寺領をも没収し焼失する。(記録なども焼失)

 

寛永年中(西暦1624年~1643年)妙覚院快洒法印が山裾に一宇を建て巖山寺と称し中興第一世となる。

天明三年(西暦1783年)豊岡藩主に寺領報告した記録によると、「境内地七町、五町の除地。抱地十一石二斗。三合の田地、納米四石五斗四升五合。寺内僧三人、寺男二人、檀家数四百十三戸」とある。

 

天保五年(西暦1834年)七月十一日、村内より出火し大火に見舞われ建築、諸記録など消失す。

現在の本堂は、嘉永三年(西暦1850年)三月三日、檀信徒集結を注ぎ竣工落慶の運びとなり今日に至っている。

一千有余年の長きにわたり変遷興廃あれども、慈覚大師、長慶上人の光明赫々と放ち給いて、往古は二州三丹遠近の諸侯人を始め、善男、善女の現世安穏、後世安楽を祈り参詣者が後を絶たなかったと言い伝えられている。(天保元年七月由来記より引用)

 

当山は神仏習合の寺院として、現在も山上に建つ地蔵堂、山王社、日吉社を祀り、毎年八月二十四日の地蔵盆に於いては護摩供を修し神官と僧侶が共に祈願を行っている、珍しい姿を伝えている。また、奉納相撲を行い稚児の土俵入りなど多くの参拝者が訪れる祭りとして町の無形文化財に登録されている。

 

境内には古銭約4万枚を溶かして鋳造した総丈2メートル32センチ重さ150キロの聖観世音菩薩像が安置されている(古銭観音)また、本堂内の襖絵はすべて立脇泰山(1886年~1970年)氏の作品が収められている。

 

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